デオキシリボ核酸(DNA)は、すべての生物やほとんどのウイルスの形質を代々受け継ぐための遺伝物質です。DNAは、2本のヌクレオチドがお互いに巻きついて二重らせんを形成しています。DNAの構造の発見は、約1世紀にわたって段階的に行われ、科学の歴史の中で最も有名で魅力的な物語の一つとなっています。
DNAは、デオキシリボースという糖、リン酸基、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という4つの窒素を含む塩基を含むヌクレオチドというサブユニットから構成されています。アデニンとグアニンはプリンと呼ばれる化学物質の一種であり、いずれも二環性の構造を持ちます。シトシンとチミンは、ピリミジンと呼ばれる単環性の構造を持つグループに属します。
同じ鎖の中で隣り合うヌクレオチドは、ホスホジエステル結合によって共有結合しています。ヌクレオチドでできた2本の鎖は、一方の鎖のアデニンが他方の鎖の同じ位置にあるチミンとペアになり、一方の鎖のシトシンが他方の鎖の同じ位置にあるグアニンとペアになるという水素結合によって結合しています。このような水素結合は、2本のDNA鎖の5’と3’の端が反対方向に向いている逆平行配列によって可能になります。この配列がなければ、ヌクレオチドは鎖間で水素結合を形成するのに不適切な位置にあることになります。
DNA分子の2本の鎖は、二重らせんと呼ばれるバネのような構造でしっかりと巻かれています。しかし、二重らせんは完全な対称構造ではなく、規則的に溝が形成されています。主溝は、糖-リン酸の骨格が比較的離れているところにあります。この溝には、転写因子などのDNA結合タンパク質が入り込むことができます。一方、副溝は、糖-リン酸の骨格が近接しているところに生じる溝です。副溝を介してDNAに結合するタンパク質は比較的少ないです。
DNA構造の発見は、1869年にスイス人科学者フリードリッヒ・ミーシャー(Friedrich Miescher)が「ヌクリン」と呼ばれる物質を発見したことから始まりました。白血球からタンパク質を抽出する過程で、ミーシャーはリンの含有量が比較的多い未知の物質を発見しました。それが何であるかは分かりませんでしたが、生物学的に重要な物質ではないかと考えたのです。ミーシャーは正しかったですが、科学界が彼の洞察を完全に理解するには数十年を要しました。
次の重要な発見は、ロシア人生化学者フィーバス・レヴィーン(Phoebus Levene)によるものでしました。1919年、レヴィーンは、ヌクリン(後に核酸として知られる)がポリヌクレオチドと呼ばれる分子の鎖で構成されていることを提案しました。この提案は、酵母を使った研究で、ヌクレオチドがリン酸基、糖、窒素を含む塩基から構成されていることを発見したことに端を発しています。レヴィ―ンのポリヌクレオチドモデルは多くの点で正しかったものの、DNA分子の中で塩基がどのように配置されているかはまだ不明でしました。
オーストリア人生化学者エルヴィン・シャルガフ(Erwin Chargaff)は、レヴィーンの研究をさらに発展させました。シャルガフは、1940年代後半に、DNA中のアデニンの量とチミンの量は常にほぼ等しく、グアニンの量とシトシンの量は常にほぼ等しいという重要な発見をしました。これは「シャルガフの法則」と呼ばれ、DNAの構造を最終的に解明するための重要な証拠となりました。
1950年代初頭、アメリカ人生物学者ジェームズ・ワトソン(James Watson)とイギリス人物理学者フランシス・クリック(Francis Crick)は、ライバルであるアメリカのライナス・ポーリング(Linus Pauling)と競い合ってDNAの立体構造を発見しました。彼らはシャルガフの研究を基にしてDNAの物理モデルを構築するために、物理学、数学、化学の知識を駆使しましたが、DNAの二重らせん構造を示すX線写真という重要なデータを手に入れるまではうまくいきませんでしました。この写真は、物理学者ロザリンド・フランクリン(Rosalind Franklin)の未発表データで、フランクリンに内緒でワトソンとクリックに渡されたものでしました。ワトソンとクリックは、1953年にDNAの構造を発表し、この発見により1962年にノーベル医学・生理学賞を、フランクリンの同僚であるモーリス・ウィルキンス(Maurice Wilkins)とともに受賞しました。残念ながら、フランクリンは1958年に亡くなったため、ノーベル賞を受賞する資格はありませんでしました。